ーーインタビューをしているこの京都大学総合博物館に塩瀬先生は准教授として勤務されていますが、先生が大学の学部ではなく博物館に所属しているのはどうしてでしょうか。
塩瀬 隆之先生:
もともと僕は工学部の出身で、卒業研究や博士の学位論文ではロボットの機械学習が研究テーマだったんです。「人間がやっているような学習をどうやったらロボットにさせられるか?」からスタートして、そこから人間同士のコミュニケーションに興味を持ち、人間とロボットのコミュニケーションにも興味を持ち、さらにロボットとロボットのコミュニケーションと、あらゆるコミュニケーションに興味を持つようになりました。
――それが博物館へとどう繋がっていったのですか?
コミュニケーションの研究をしていく中で、「専門家が喋っている難しい話は相手に伝わらないな」と感じました。そういう“伝わらないコミュニケーション”の典型例が、サイエンスコミュニケーションなのかなと。そして博物館には、難しい、伝わりにくい科学の様々な分野が集まっているのに気づいたんです。文系の話も科学系の話も技術系の話も、面白そうなことは博物館にたくさんある。そうした場所だから、サイエンスコミュニケーションの研究に役立つことがあるのではないかなと思ったのです。
――大学の博物館は、たとえば上野にある国立科学博物館などとどう違うのでしょうか。
設立の趣旨がまったく違うのです。普通の博物館は面白いものや大事なものをコレクションしたり、有名な資料を購入するなどして展示を充実させることもできます。しかし大学の博物館は展示のために何か資料を買ってくることはできなくて、大学が研究によって関わってきたものが結果として資料になっているのです。どこからどう見てもただの石ころにしか見えないものも、貝殻も、たくさん集めて研究して体系化すると立派な資料になる。それが125年、積もりに積もって、重要文化財や国宝にまでなるほどの資料になることもある。だから、逆に言うと一個一個を研究者が説明しないと「石ころにしか見えない」とか「貝殻にしか見えない」と言われてしまうものがたくさんあるんです。「研究というメガネを通して見ると、そこに意味や価値が生まれる」。資料そのものが京都大学に来る前から有名だった、というものはおそらくほとんどありません。
――確かに…。何も知らないまま見ると、その価値が理解できないものも多いですよね。
だからこそコミュニケーションはすごく大事だし、逆に「研究者の人たちがなぜこのただの石ころに興味を持っているのか」とか「なんでこんな貝殻一つに興味を持っているのか」っていうのを説明する、つまり研究の面白さを伝えるにはいい場所だと思っています。
大学博物館は資料以上に、「研究そのもの」をお宝として説明する場所なので、研究分野ごとにも性格が異なるし、大学ごとにも歴史が異なるので、僕的には大学博物館という特殊な博物館がやりがいのあるコミュニケーションとして面白がっています。
――そうですね。大学ごとの研究の歴史の蓄積がここに表れていて、特に普通の博物館とは違う価値を提示できる場所だということが分かってきました。
いろいろな国に旅行すると、その都市の有名な大学に行くのは面白いですよね。ケンブリッジ大学とかオックスフォード大学とか。でも大学って外側から見ても、中に入っても「建物が綺麗だな」くらいしかわからない。だから大学博物館はすごくいい窓口なのです。ケンブリッジ大学なんか、複数のカレッジごとにそれぞれ異なる分野の大学博物館を抱えているのです。
その大学のことをものすごく短時間で知る…それはもちろん表面的な部分かもしれないけれども、いろんな研究に対してそれぞれの研究者がどんな視点でアプローチしてきたか、その大学に集まった研究者たちの姿勢をうかがい知ることができます。そうやって大学の研究に触れる場所が増えるのは、すごく大事だなと感じています。
――この大学博物館についてのお話しを、僕は高校生の時にお聞きしたかったなって思います…。だから今の高校生にもすごく伝わって欲しい情報ですね。
僕が過去にやった展示で、「あの展示を見て私は理学部の宇宙物理専攻に入りました」と言ってくれた学生さんがいて、そういう時はこの展示をやってものすごくよかったなって思います。
それは、僕自身もそう。現存する中では日本で最古のX線管を軸にX線写真展を企画したとき、医学や天文学、工学などいろんな分野の研究者が、それぞれX線でしか見えない美しい研究対象の数々に魅せられているのが分かって、「高校生の時にこの話を聞いていたらこの学部に入ったのにな」とインタビューのたびに思っていました。これが大学博物館で企画展示をするたびに毎回起こるんですよね。どの分野の何の研究を調べても全部面白くて。
研究そのものを高校生をはじめ皆が追体験できなくても、展示を「見る」ことを通じてほんの短い時間だけでも追体験してくれれば、きっとどれも「面白い」とわかるはず。大学博物館を通じて突き詰めた好奇心の先にある研究の魅力が伝わるといいなと思っています。
――博物館に来た人が展示を見て生まれる学びって、学校のものと全然違うと思うんですけど、具体的にどういうところだと思いますか?
学校では先生から「この順序で学ぶといいよ」と、学ぶ順番が決まっているんですよね。基本的に幕の内弁当になっていて、さらに食べる順序が指定されているのが学校という場所なのではないかと思います。最初にご飯を食べて、鮭を食べて、ご飯食べて、お漬物を食べて、またご飯を食べたら、お惣菜食べて…っていう三角食べのようなバランスが大切。それと比べると博物館は逆にバイキングに近いのではないかと考えますね。好きなところへ行って好きな順序で観てもいいというのが学校とはぜんぜん違う。化石好きだったら化石の前に1時間いて帰ればいいと思うんですよね。自分が面白いと思ったものを面白い順番に並べられるのが博物館としての意義だから、社会教育装置としては「好きなところから好きなだけ好きなものをどうぞ」っていうのが一番いいかなと考えています。
――そう思うと、とても自由な学びの場所ですよね。
そういう意味で、できるだけ美味しそうにバイキングを作るのが博物館としての展示の役割であり醍醐味でもあるのかなと思うんですけど、学校の修学旅行で来館されると「『これとこれを満遍なく見た』っていうレポートを書け」と先生が指導してしまっているのを聞いてしまうと、あれはやめてほしいなと思います。
――バイキングは自分で選んで好きなだけ食べるのが楽しいのに…。
そうそう。「カレーばっかり食べるんじゃない!」「エビフライばっかり食べるんじゃない!」って怒られることなく、徹底的に突き詰めて欲しい。カレーに溺れて欲しいし、エビフライに溺れて欲しい。
――食べるもの、つまり学ぶことが他人から決められていたらつまらないですよね。
食べる順序に意味があるものも確かにあります。でもそれは学校にお任せして、博物館にまでそれを持ち込む必要はありません。逆に博物館でのバイキング的な学び方を日常に持ち帰ってもらえたら、家でも学校でもバイキング的に食べるという技が身につくんじゃないかと思っています。幕の内弁当を自分なりの順番で楽しんで食べる方法を身につけられたら、学校での学びにも新しい風が吹くんじゃないかなとか期待しています。博物館と学校が連携する博学連携が指導要領改訂などでも明示されてきたことは嬉しいのですが、今は学校的な学び方を博物館に持ち込もうとされる学校さんも少なくないので、それを打破して博物館的学びを学校に持ち帰ってもらいたいなと思っています。
学生時代に博物館で目にしたもの全てを覚えているという人は少ないと思いますが、自分が印象に残っている場面を語れる人は結構いるのではないでしょうか。
好きなだけ学んでそのことをもっと知りたくなったり、あるいは学びすぎて他のことを学びたくなったり…。バイキングのように博物館を楽しんでこそ、自分だけの学びが得られるのではないかと感じました。
後編では、自分だけの学びを得るための「選択肢」について、岐阜市の不登校特例校「草潤中学校」の取り組みを通じてお話しを伺います。
執筆:小池拓也