ーー今回は、サイエンスコミュニケーションの重要性、そしてコミュニケーションによって伝えたいことについてお伺いしていこうと思います。
私(筆者)と塩瀬先生の出会いは、私が在学中に参加したサイエンスコミュニケーションについての勉強会でした。
そこで先生は「東日本大震災の時に従来のサイエンスコミュニケーションがあまり機能しなかったのではないか」とおっしゃっていましたね。
塩瀬 隆之先生:
震災の3日後に「わたしたちに何ができるか」を集まって話し合い、約10日後の3月22日に、科学者とサイエンスコミュニケーター、そして学校の先生や新聞記者など、子どもたちや世間に「何が起こっているか」を伝えるべき立場の人たちが集まって、ここ(京大博物館)で勉強会をしたんですよ。
サイエンスコミュニケーションってそれまで、科学に詳しい人が「楽しいでしょ、面白いでしょ」ってその魅力を伝えるところばかりが注目を集めていたんだけど、あの震災の時には科学に詳しかったはずのほとんどが急に口をつぐんだんですよね。一番詳しいはずの研究者たちも、「僕は植物に対しての放射線影響が専門だから」とか、「発電所における発電効率に関しては専門ですが...」とか、みんな自分の専門領域に線を引いてしまって、それ以外のことは「わからない」という。そして、「原子力発電所が津波で電源を失って冷却できなくなった時にどうすればいいか」「中長期にわたる低線量被ばくの人体や農作物への影響」について、ここで起こっていることを解説してくれる研究者がほとんど出てこなかったんですよね。もちろん研究者の態度としては「専門外について語らない」ということは正しい態度なんだけど、それまではなんでも知ってるみたいな風だったのが、急に肩透かしにあったような。
もちろん、想定していなかったことだから、そういう分野の研究者を社会が育ててなかっただけといえばそうなんですけど。そこで、「いまそこで起こっている科学技術に関する事故の状況がよくわからないことによって、結果として困っているのは誰だ」というのをみんなで考えようというのがその時に勉強会を開催した動機です。
――なぜそんなことになってしまったのでしょう?
まず第一の問題は、「科学が明確に答えのあるものだけを扱う」という勘違い。そして第二の問題が、「科学技術が単独ではなく、複合的に自分たちの社会にどう影響するか」を専門家も非専門家もあまり考えてこなかった、ということに終始すると思います。日常から答えが明確でないことも存在し、また一つに限らず複雑に絡み合って常に自分の生活のそばにあることを知らないといけなかった。原発事故の時は、子どもたちから「この事故ってこれからどうなるの?」と親や学校の先生が聞かれたときに、大人も答えを知らなかったし分からなかった訳ですが、その時に「細かいことを聞くな」とか「そんなことに触れるな」みたいな、その話題を出してはいけない雰囲気にしてしまった。これはすごく問題だなと思いました。
大人が知らないことが当然あってもいいし、それは科学者などの専門家にとってもわからないことは当然ながらあるはずです。分かったことだけを話すのがサイエンスコミュニケーションではなく、日頃から分かることも分からないことも喋っておけばよかったのに、「分かることしかしゃべらない」というのは大きな問題だったなと。
――「確かなことしか喋らない」という空気が、暫定的な物事を扱うことを妨げる方向に働いてしまったのですね。
そうした時に、大学の研究室の中で行われている会話って、どうなるか分からないことを話題にしてたびたび喋っているんですよね。「これどうなっているんだろう、何なんだろう」って。人に何かを話すときは、通常自分の中で定義が明確化した言葉を使いますよね。でも自分の中で黙って考えるようなときは、よく分からないことや意味を知らないことを、その状態のまま次の考えに結び付けて考えを深めることができる。「未定義語のまま考えられる」というのが、自分の中で考えることのひとつの特徴ではないかと考えています。でも本当に信頼し合えるような、いつも話し合っている大学の研究室の仲間とかって、よく分からないものを分からないままでもぶつけられますよね。
そう考えた時に、<分かることと分からないことの境界>にこそ新たな研究が生まれることを大学が常にそれ以外の人たちにも伝え続けることが本来のサイエンスコミュニケーションで、「こんなのができました」とか「こんなことができます」という結果の報告だけを伝えるのがサイエンスコミュニケーションでは本来ないんだろうな、と思っています。
――科学技術と付き合っていく上で、「分かることと分からないことの境界に研究がある」ということは一つ重要なキーワードですね。
新しいことを生み出す上で科学技術が欠かせない時代に入ったというのは間違いないですが、同時に、「科学技術は暫定的なものだ」ということを社会で共有することがすごく大事ですね。今はみんな、とくに理系科目が苦手だという方ほど「科学技術は答えが明確だ」と思い込んでいる節があるので、まるで権威の肩代わりかのように科学を使おうとしてしまっていますよね。「科学者が言う通りに」とか「科学ではそう決まっているから」とか。でも本来は、「ここまではこの条件下で成立することが分かっている」という合理性の中で判断することで、その科学的根拠を用いることに意味が出る。
それは半年後に覆されるかもしれないし、1年後に覆されるかもしれないけど、だとしても前提が間違っていただけで、その時点で新たに入手された知見から合理的に考えなおせば、一度判断を下したこと自体は間違いではない。その上で新たな仮説をたてなおせばいいだけなのですが、今の風潮はちょっとでも間違ったり異なる結果になってしまうと、それまでに提出されていた暫定的な結果ですら全部なかったことにしてしまいますよね。日本的な失敗に対する態度、究極の解決方法が、「なかったことにする」しかないのです。そこはすごく非科学的な解決法なので、もっと望まない結果だったとしても、そこからの修正の仕方も科学的であるべきです。社会課題からの紐解き方ももっと科学的でないといけないし、「科学が万能である」という意味ではなくて、「科学を根拠にして考える」ということに取りくんでもらいたいですね。
――確かに…例えばコロナ禍のSNSなどでも、専門家の主張が「正しい」と「嘘」の二元論で語られるような場面も多かったなと感じます。
それは、「科学のプロセス」があまり理解されていないからではないでしょうか。
何かの主張をするってこと自体は間違いではなくて、その後、科学的な方法にのっとって同じ結果が再現できないということで、科学的方法によって淘汰されていくのが「科学のプロセス」です。だから、例えば「ナントカがあります!」と発表すること自体は(悪意がなければ)問題のない発表行為であり、それが科学的に価値を評価されるプロセスを無視して、勝手にお祭り騒ぎをして潮が引くように去っていく周囲の態度が間違っているのです。
――色々な主張が再現性をもとに淘汰されて選抜されていく、ということは科学のプロセスにとって重要だと感じます。でもこの考え方は、多くの場合学校で学べるものではないですよね。
そうですね。
この取材の前に滋賀大学の加納先生のところでインタビューをされたとうかがいましたが、加納先生と僕とで取り組んでいる研究の一つに、「日本の子どもたちの科学的な見方を調査しているのですが、そもそもこれって大人もできてない」という事に関する研究があります。
もっと「科学的なものの見方とは何か」とか、「科学的な認識とは何か」ということを社会的に共有しないといけないので、「カガクノミカタ*」みたいな番組は大事だと思って協力させていただきました。お子さんに番組を見せようとして、一緒に傍にいる大人の人も楽しんでくれる、という構図がすごく大事で、結局のところ「科学はモノの見方」の一つにしか過ぎないっていうことを知ってもらえたら、と思います。
――「カガクノミカタ」は、今までの番組にはない「科学という営みはどういうものなのか」ということにフォーカスした画期的な番組でしたね。私も在学中にこの番組を見て、それがきっかけでLeaLに入社しました。「カガクノミカタ」を制作するにあたって、塩瀬先生が一番大事にしていたことはなんでしょうか?
タイトルの通りなんですが、「科学は見方である」ということを伝えたかったんです。
理系文系に関係なく多くの人に、「いかに科学が身近な中にあるか」っていうのに気づいてもらうことが大切なので、イチゴとかバナナとか、身の周りにあるものからスタートしようと思いました。「科学は学校や研究所で教わらないとやってはいけない」という先入観がどうしてもあるので、「自分たちには元々、科学的な見方が備わっていて、教わらずとも気づく力がある」ってことを体験してもらうのが、番組として一番大事なことでした。番組は基本的に、「(誰でも)気づける」ってところからスタートしています。「科学はこんなにすごいんだ、白衣を着て研究所にいないとできないんだ」っていう権威ではなく、皆さんのすぐ手元でできるし、ポケットの中にあるし、振り返ったら台所にあるし、歩いているときに学校に行くまでの道ばたにたくさんある、というのが科学だってことを知ってもらいたかったから、「科学の見方をみんなのものに取り戻す」というのが一番のコンセプトでした。
――「みんなのものに取り戻す」…確かに、あまり普段は自分のものの見方が「科学的」だと感じることはないような気がします。
番組の制作中に、ディレクターさんたちが何回も加納先生と僕に「これって科学的って言ってもいいんですかね?」っていう確認作業がありました。本当にそのどれも科学的で、「ほらそれでいいんですよ」と励ます?のが仕事のようでもありました。「並べてみる」とか、「自分の中でふと仮説が芽生える」とか、それも全部「科学」の営みです。
多分、「これって科学でいいんですかね?」っていう確認作業自体が、日本の教育の中で科学を遠ざけてしまってきたよくない部分の一つなんだろうなと思います。理科の先生から習わないと科学と呼んではいけないかのごとく、大学の研究室に行かないと科学をしてはいけないかのごとく特権的なもののように思われている。そこはたぶん権威として人々から奪ってしまったものであって、本当はみんなの中に科学的な見方は存在している、ってことにもう一回気づいてもらうことが、「カガクノミカタ」としては一番大事でした。
――「カガクノミカタ」の中では、専門的な用語や科学者のような人たちは全く出てきませんよね。科学は見方であり、それは私たちの身の回りにある、というメッセージをよく表していると感じます。サイエンスコミュニケーションという意味でも、科学は権威ではなく、みんなが持っているものの見方なのだということを伝えていくことは非常に重要ですね。
科学のプロセスに注目することの大切さや、科学はものの見方であるということなど、今回塩瀬先生とお話しすることで得られた多くの学びは、今後サイエンスコミュニケーションについて考える上で非常に重要だと感じました。まずは、「カガクノミカタ」を皆さんも見てみませんか?
さて、冒頭でもご紹介しましたが、塩瀬先生は教育の分野でとても幅広い活動をされています。そのことについても私たちはお話しをお伺いしましたので、次回以降でじっくりお伝えできればと思っております。お楽しみに!
執筆:小池拓也